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困難は誰のものか、発達臨床における責任帰属の問題

発達臨床の現場では、日常的に「困難」が語られます。
困難を抱える子ども。
困難を示す当事者。
困難への支援。

これらの言葉は一見中立的ですが、注意深く見ると、ある前提を含んでいます。
それは、困難が「誰かの持ち物」であるかのように扱われている、という前提です。

困難は、いったい誰のものなのでしょうか。
本人のものなのか。
家族のものなのか。
それとも、支援者が引き受けるべきものなのでしょうか。
この問いは、発達臨床の実践を静かに規定しています。

多くの場合、困難はまず個人に帰属されます。
行動の特徴、認知の偏り、感情調整の難しさ。
それらは本人の内側にある要因として整理され、支援計画もその前提で組み立てられます。
この構図は、制度としては理解しやすく、責任の所在も明確です。

しかし、この明確さは同時に、別の問いを覆い隠します。
その困難は、どのような条件のもとで現れているのか。
その困難は、誰にとって困難なのか。

発達臨床で扱われる困難の多くは、単独で存在しているわけではありません。
それは、特定の環境、関係、期待の中で立ち上がります。
同じ人が、ある場面では問題なく機能し、別の場面では強い困難を示す。
この事実は、困難が個人に固定的に宿っているわけではないことを示しています。

にもかかわらず、困難が個人に帰属され続ける理由の一つは、
責任の分配が難しいからです。
環境、制度、文化、関係性。
それらを含めて困難を捉えようとすると、
誰が何を変えるべきなのかが曖昧になります。

結果として、臨床は「扱いやすい責任」を選び取ります。
つまり、本人と家族です。
支援は善意に基づいていても、
困難の所有者を暗黙のうちに固定していきます。

この固定は、当事者の内面に影響を及ぼします。
困難は「状態」から「属性」へと変わり、
やがて自己理解の一部として内在化されます。
自分は困難を持つ人間だ、という語りが形成されます。

ここで問題なのは、困難を自覚すること自体ではありません。
問題なのは、その困難が、関係や構造の産物である可能性が切り落とされる点です。
困難が完全に個人のものとして引き受けられたとき、
環境側の調整余地は消えていきます。

発達臨床における責任帰属の問題は、
「誰が悪いか」という道徳的な問いではありません。
それは、「どこまでを個人の責任として扱うか」という設計の問題です。

困難を個人に帰属しすぎると、
支援は努力の管理になります。
頑張れるか、続けられるか、耐えられるか。
これらが暗黙の評価軸になります。

一方で、困難をすべて環境の問題として扱うことも現実的ではありません。
人には個体差があり、同じ環境でも影響の受け方は異なります。
重要なのは、どちらかに単純化しないことです。

発達臨床に必要なのは、責任の再配分です。
困難を「個人の属性」でも「環境の欠陥」でもなく、
両者の相互作用として捉え直すこと。
その上で、どのレベルで何を調整するのが最も現実的かを考える姿勢です。

困難が誰のものか、という問いは、
実は「誰が変わらなくてよいことになっているか」という問いでもあります。
個人に帰属された瞬間、環境は免責されます。
この免責が、同じ困難を繰り返し生み出します。

発達臨床が本当に目指すべきなのは、
困難を誰かに押し付けることではなく、
困難が固定化されない状態をつくることです。

そのためには、
困難を一時的な現象として扱い、
責任を流動的に配置し続ける必要があります。
今日は環境を調整する。
明日は関係を見直す。
別の場面では、本人の工夫を支える。

責任を固定しないこと。
それは曖昧さではなく、臨床的な誠実さです。

困難は、誰か一人の所有物ではありません。
それは関係の中で立ち上がり、
関係の再編によって形を変えます。

発達臨床が扱っているのは、人ではなく、
人と世界の接続のしかたそのものなのだと思います。